藤原和彦さんが唱えている教育の話を自分なりに解釈する(その1)

私がこれまで出会った人の中に、中卒なのに会社を経営していたり、大卒の社会人を何人も部下に持っている人が多くいる。
現代社会でも「大卒」のネームバリューはそこそこ通じていて、特に東大卒なんてのはそれだけでかなりの看板となる。
ただし看板は看板である。
実際に大卒時点(22〜25歳ぐらい)で同じ看板を持っている人でも、社会に出て数年経験を積んだ後では全く違う能力や考え方を身に着けていることが多々ある。
それは社会で学ぶことと学校で学ぶことが性質としてあまりにかけ離れていることに起因している。

正解を見つけるテクニック

学校で学ぶ多くのことがらには「正解」が存在する。
生徒や児童である子どもたちは正解を導き出すための方法を学ぶ。
正解にたどり着いた子どもは手を上げて発表したり、答案用紙に回答を記入する。
正解にたどり着けなかった子どもは、どうすれば正解にたどり着けたのかを復習によって学び直す。
これを繰り返すことにより子ども達は正解を導き出すあらゆるテクニックを習得していく。
そしてより多くのテクニックを身に着けたものが、より良い評価を受けることになる。

もちろん、学校で学ぶのは上記のようなことだけではない。
美術の授業には正解は存在しないし、友だちとのケンカからも違ったことを学ぶだろう。
しかし、受験で求められる多くのことは上記のテクニックに他ならない。
受験対策偏重の学校教育では美術やケンカで学んだことは評価されない。

正解がない問題を解決する力

正解を見つけるテクニックを学校で学んだ学生が、社会で直面する大きな壁がある。
それは、世の中には正解が存在しない問題が山積みで、会社ではそれらの問題を解決することが求められるということだ。
そのような問題を解決する術は学校では学ばない。
そして多くの場合においてその問題を解決する術は会社の先輩や上司に聞いても、聞いた本人にはピンと来ない返答しか得られない。
なぜなら正解が存在しない問題には、その解決法の正解も同様に存在しないからだ。
結局、自らの経験値において学んでいくしかなくなる。

するとどういう現象が起こるか。
同年代の社会人でも、中学校卒業後の15歳で社会に飛び出した人間と、22歳まで大学に通っていた人間の間に、正解がない問題に取り組んだ経験値の差が生まれているのだ。

この2つの力については学校教育や子どもたちにだけ関わる問題ではない。
私たち大人にとっても大きな問題であり、それを認識しているかどうかが人生を大きく分けると言っても過言ではない。
次回はその辺りに触れてみようと思う。

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