前回の記事では下記の2つの話をした。
- 正解を導き出すテクニックやくして
- 正解がない問題を解決する力
藤原和彦さんが唱えているところによると、1は「情報処理力」2は「情報編集力」と呼ばれるものと解釈している。
成長社会→情報処理力
社会が高度経済成長期にあり、GDPがどんどん大きくなり、国民みんなで豊かになるために働いていた時代では「情報処理力」が重要であった。
みんなで1つの正解を導き出すごとに、社会はあたかも天井がないという錯覚を覚えるほどに成長し、国民は豊かになった。
その社会では力道山や美空ひばりに代表されるような国民的な大スターが誕生していたし、全員が1人のスターを応援し、1つの目標に向かって前進していた。
音楽CDの売上はミリオンヒットを次々に生み出していたし、フジテレビではお笑いコンビのスターを生み出す方法論が確立されていた。
一家に一台はカラーテレビを備えることや、トヨタの高級車を持つことがステータスとされ、持っていない人は持っている人を羨んだ。
社会では富と安心を得ることが正解とされ、そのためには高学歴を手に入れ大企業に就職することが正解のように思われていた。
その社会で通用する社会人にはより素早く、正確に正解を導き出す力「情報処理力」が万物に通用するかのように思われていて、学校教育では徹底的に「情報処理力」が叩き込まれた。
その幻想は1997年に打ち砕かれる。
山一證券、北海道拓殖銀行が破綻し、翌98年には日本長期信用銀行などの名門金融機関の破綻が相次いだ。
それまで成長の一途を辿っていたGDP成長率が-1.5%という戦後最低の結果をもたらした。
天井がないと思われていた成長社会が既に頭打ちになっていたことが明らかになった。
絶対つぶれないと思われていた銀行が潰れ、大企業が国民1人の人生を守ることが出来ないことがバレてしまった。
国が国民の1人の人生さえも守ることが出来ないことがバレてしまったのだ。
ここから社会は変革を求められる。
成熟社会→情報編集力
成長が頭打ちになってしまった社会に求められることは、天井がある間の内側で起こすべき事象、すなわち「多様化」である。
多様な価値を認めるべき風潮が世の中に生まれたのはこの頃のはずだ。
現代では高級外車を持っていなくても価値観は人それぞれという考え、スマホでYouTubeを見るからテレビは持っていなくても良いという考えが当たり前だろう。
むしろ、みんなが1つの価値観を持っていることのほうが、何だか宗教じみていて恐怖すら感じる人もいるはずだ。
「多様化」とは「みんな一緒」の価値観ではなく「一人一人それぞれ」の価値観である。
成長しきらない、天井に達してしまった社会では、その内側で多様化を活性化し、社会として成熟することが求められる。
「みんな一緒」の正解を導き出すことは求められていない。
成熟社会では多種多様な問題、多種多様な価値観が存在し、正解はない。
成熟社会では違う価値観を持つ者同士が常にぶつかり合っている。
お互いが自分の価値観を主張する中で共通項や妥協点を見出し、互いに納得して先へ進むこと、すなわち「納得解」を導き出す力が求められる。
または多種多様な価値観の内、できるだけ多くの価値観に対応出来る「納得解」が求められる。
藤原和博さんはよく、結婚式の引き出物の話を例に上げる。
おそらく40代以上方は、若い頃の友人の結婚式で、引き出物として全員同じものを貰っていただろう。
しかし、現代の結婚式の引き出物の多くは、個人が好きなものを取り寄せることが出来るカタログが主流だ。
情報処理力→情報編集力
情報編集力が求められるからと言って、情報処理力が不要という訳ではない。
例えば小学校で習得する算数の学習は情報処理力を学ぶ典型だが、同時に論理的な思考を身につける訓練でもある。
論理的な思考を鍛えることは、後々に情報変種力を高めるために必須だ。
しかし、歴史の授業でで年号と出来事だけを覚えさせる、英語のテストで単語の画一的な意味だけを回答させるといった教育は無意味だ。
歴史は何のために教えるのか、英語は何のために教えるのという目的論に、きちんと立ち返るべきだ。
アイデアに過ぎないが、例えば小学校では情報処理力にある程度特化し、中学校では情報編集力を交え、高校・大学では完全に情報編集力を鍛えるという風に変化すべきではないか。
現在の学校教育は未だに情報処理力偏重に感じてならない。
受験システムがそうなっているから致し方ないのだろうが、受験システムをさっさと変えて、学校教育を変革させるべきだ。
それが教員だけの力で難しいなら、民間や企業、地域社会の力を借りるべきだ。
いや、もはや学校という「みんな一緒に生活する場」自体が不要になり、義務教育としての小・中学校がなくなる時代が訪れる可能性すらある。
公教育、行政が出来ないことはいっそのこと民間で賄ってしまえば良いとすら思う。
少なくとも私は、自分の子どもが15歳を迎えた後は、現状の学校教育には何も任せられない。
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